出会いうるものたちのさけび

西興部村村長 菊池博

    
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西興部村村長 菊池博

かめ「経歴をお聞かせいただけますか?」

村長「私は中藻の生まれです。昭和32年7月20日。1957年生まれ。中藻で生まれて中藻で育ったんですね。小学校はいまはなくなっちゃいましたけど、中藻小学校です。いまは屋根がどさっと落ちてる、あの校舎です。」

かめ「中学校はどちらへ?」

村長「中学校は西興部中学校。」

かめ「通学やなんかはたいへんだったでしょうね。」

村長「でも村営バスでしたね。」

かめ「あ、バスあったんですか?」

村長「昭和47年ですかね。その5年前に村内の中学校は上興部を別にして西興部方面は統合になりました。それで上藻と中藻は村営バスでした。そのまえは北紋バス。滝上からバスが通ってたんです。その1,2年後ぐらいから村営バスになったのかな。で、そのバスで毎日通ってたわけです。中学校になって、クラブ活動っていうと、野球をやってたんだけど、大会なんかが近くなってこれば、練習とかするもんだから、土日はバスが走ってないんで、自転車か歩きで8キロ。そんなこともあったね。そのあとは興部高校に行きまして。」

かめ「お、名門!」(※昔は西興部から高校といえばだいたい興部高校で、そこそこの年齢の人たちと話すとだいたい興部高校の話題で盛り上がります。)

村長「そう、今年は7人だったけど……。」(※令和5年度の興部高校の入学者は7人で、地元の興部中からの入学者はいませんでした。)

かめ「高度成長期まっただなかに育って、暮らし向きはどんどん変わっていくような子ども時代だったでしょうか?」

村長「もともとはウチは農家だからね。昔は畑作。そのあとは酪農。畑作だったとき、小学校低学年のころは、イモだとかビートの収穫だとかはずっとさせられて、やるんでなくて、させられてたね。」

かめ「それはあるところで酪農に切り替えるっていうタイミングがあった?」

村長「そう、だけど自分が気づいたときにはもう酪農になってたんだけど、でも畑作と一緒にやってたね。で、私は朝晩乳搾りをやって。」

かめ「子どものときの地域の印象はどんなものだったでしょうか?」

村長「中藻もそのときは人がいたからね。お祭はあったし、学校の運動会っていったら、昔は6月15日が北海道神宮祭っちゅうのかな、その日にだいたい中藻の運動会ってのがあって、もうほんとに家族総出でやってましたよね。いまは木材とかが置かれてる、あのグラウンドで。子どもの運動会は当然あるけど、親たちの、まぁいまも親たちのあるけど、それよりももっと、みんなでご飯作ったりしてたね。あとは、盆踊りだとかお祭。自分が生まれたときはまだ電気がなかったからね。自分がたぶん5歳か6歳のときかな、電気がはじめて通ったんですよ、中藻の地域に。」

かめ「お~」

村長「それまではランプとかなんで、ランプの掃除だとかはよくやってたのは覚えてるし。それで電気来るまえはさぁ、ほんとに小さいときなんだけど、年に一回とかね、映画鑑賞みたいなのがあって、役場のひとだとかが西興部の方から映写機を持ってやって来るんだけど、電気がないから川の水力発電みたいなのを使ってやってたのね。そしたら観てるあいだにゴミ詰まってさぁ、電気起きなくなって途中で止まるんだよ。年に一回親に連れられて、そういうのはいまでも覚えてるよね。時代劇みたいなのなんだけどさ。人が集まるっていったら、昔はけっこうそういう催し物があったから、田舎もんだからうれしいわけよ。いまではもう全然考えられないけど、人が集まって地域の催し物やって賑わうっていうのは、いまもそういうのがあればいいのになっていう思いもあって、私もどっちかっていったらイベントしたいなっていうはそういうところに根っこがあるな。やっぱり地域のひとみんながひとつの集まりにわぁーっとなって地域が盛り上がるっていうのがいいね。」

かめ「なるほど」

村長「だから自分が村長になってからは、なるべくイベントをやりましょうってことでいまの政策のなかにも金額は少なくても盛り込んでいるんだよね。自分が村長になる前はさ、やっぱりホテル森夢の活性化っていうのが課題だったから、ホテルの催しの補助金っていうのはあったんだけど、それ以外にもやってほしいっていう思いでいまでも引き続き政策に入れてるね。それはやっぱり、地域の集まりで、小さいながらも、大人も集まってわぁわぁ賑わってたっていう思い出があるからだろうね。それを意識していつもやってるわけではないけれど。」

かめ「逆にいうと、じゃあいつごろからどういう経緯で賑わいがなくなっていったんでしょうか。」

村長「それはほんとのところはよくわからないけど、人口が減っていくのと同じように少なくなっていったんだよね。いまも人口が減るのを少しでも食い止めたいっていう政策をやっているけれど、昔は開拓者がいて、開拓するなかでの苦労を労うための催し物っていう側面があったから。そういう昔のひとたちがだんだんと減っていって、とくに高度成長期のときは本州の方にひとがばぁーっと行っちゃって、それは人口の動態みてもわかるんだけど、大正14年に開村して、うちの村の人口のピークは昭和10年の4867人。そのあとは右肩下がりでずっと90年ぐらい来てるのね。いまは全国的に問題になってるけど、うちの村は昔から人口減少どうしようってね。で、その減り方見ると、昭和30年後半から40年にかけて人口がとくに減ってて、一年に200人も300人も減ってる年があるのね。そういうときに開拓された方たちがどんどんいなくなっちゃったんだね。」

かめ「ふむふむ。」

村長「いまもそうだけど、昔からここに住まれてた方が、家族が札幌にいるとか、医療やらなんやらって都会に出ていくんです。で、結局そういうひとたちがいなくなると、昔からこういうのやってきましたよね、こういう集まりやって賑わいましょうよってひとたちがだんだん減って、つまり思いがなくなっていくんだよね。もちろん今回のイベントみたいに、たとえばミュージシャン呼んでっていうのは、それはひとつのやり方だからいいんだけど、自分たちが思ってる賑わいっていうのは、我々より上の世代のひとたちがああだよねこうだよねってやったときにみんなで集まるっていうのがイメージとしてはあるんだけど、そういうひとたちがそもそも少なくなっちゃって、自分だってもう65歳過ぎてるから、まぁいつまでもそんな昔のことを思っててもダメなんだけど、ただそういう賑わいは少なくなってるよね。だっていまはひとを頼らんでも遊びはできるからさ。そういうなかでみんなが集まって賑わうっていうのは非常に難しい。」

かめ「自分たち自身で自分たちの楽しみを作っていくってことですね。」

村長「ひとそれぞれの考えはあるから、それをひとつの考えにまとめるなんてことはできっこないけど、でもいまの村長という立場としては役場のひとたちぐらいは参加してほしいよね。まぁ好き嫌いもあるし都合はあったりするんだろうけど、まぁでもこういう小さな自治体を守っていくためには、そういうのは必要じゃないかと事あるごとに話してはいるね。かといって首をつかまえて行くなんてことはないけど、村の補助金もつけてるし、せっかくだったら行こうやっていうのは言ってるね。だって、そういうひとのつながりがないと、新しいひとが来てこういうことやります!っていっても、できないじゃない。そうやって理解者を少しでも巻き込んで行きたいと思ってるから、自分も65歳としての思いは下げてさ、若いひととの対話を持ちつづけるのは大事にしてるね。」

かめ「なるほど。高校以降の進路はどのように決めたんでしょう?」

村長「高校卒業してからはどこ行くかってあんまり定まってなくてさ、どうしようこうしようって思ってるうちに、役場に入ろうかなと思って、試験受けて受かったんだけど、その年は西興部は募集してなかったんだよね。それでほかの役場を受けたんだけど、ものの見事に落とされて、それで行くとこなかったんだけど、たまたま農協が募集あって、まぁ農家だしさ、でそこからずっと農協職員の生活。平成13年に紋別・滝上・西興部が合併することになって、それで西興部農協が平成13年の2月に終わってからは紋別のオホーツクはまなす農協に毎日通ってたね。それで無事退職しようと思っていたところに、ちょっとお前こっち来いって村のひとに言われて、それでお前村長に出れ!って。自分の人生設計のなかには全くそんなことは考えてもいなくて、農協の人間だし、農家のことだけしか考えてなかったから。関係する部署とは行政とも付き合いはあったけど、行政全体のことは全くわからなかったね。まぁそういうきっかけでここに来ることに8年前になりました。」

かめ「でも成り行きだけではなれないですよね。意志がないと。」

村長「普通はそうなの。でも私の場合は外堀埋められて……(苦笑)いいから出れ!って。私は出るつもりなかったけど、村のいわゆる重鎮っていうひとたちが。でもそういうひとたちがいないとならないから(笑)だって別に試験受けてなるもんじゃないから。応援団が、いかに数が多いかだから。だから、地域づくりとか政策とかっていうのは当時はなかった。最初はほんとにコウヤク?なにそれ?みたいな。そこからじゃあどうしようっていう。だって自分に思いがあったらもっと若いうちから出馬してるでしょ。でもそういうのはなかったから。でもやっぱり人が減ってってるから、まずは人口減少だったよね。昔は同じひとが減ってるっていっても、福祉施設とかギター工場とかも、前の村長さん方のときとかは、なんぼひとが減っててもどんどん来たもんなんだわ。でもいまはさ、来てくださいっていっても来ないんだわ。なんでかったら、いま札幌でもひとが減ってるけど、それでも札幌に集中してるから、働く場所はなんぼでもあるんだよね。だからここで働いてくれる人はなかなかいないよね。でもそのなかで自分は人口減少なんとかしなきゃならない。じゃあどうするのったら、どこの自治体でもやってることではあるけれど、移住とか定住とか子育てだっていうところに力を置けばひとが来てくれるっていう思いでやってるね。」

かめ「でも一口に人口減少対策っていってもそれに不随する施策ってものすごく多いし優先順位付けにくいですよね。」

村長「いや、それはね、うちの村は財政的にはそんなに窮屈ではないから、いや、だからこそ村として残ってるんだけど、私の場合は優先順位はないね。ないってのは、自分が村長なりたてのときはあちこちの自治体見て、いいと思った施策はすぐ、あれやろうやこれやろうやってやったね。だから一番初め学校給食の無償化やるべっていって。でも役場の職員からしたら、基本に費用対効果がまずあるから。無償でっていうのはもちろんみんないいことだと思ってるけど、だけど村が全部出して住民が負担しないでっていうのに抵抗はあるのさ。だけど私はさ、そういう原則論言ってて、人口減少を止めることもできなければ来る人もないっていう、方策ないんだったら、どうするのさこの村っていう思いがあって。だから根本的に、まぁ私が言っちゃまずいんだろうけど、費用対効果全く考えないでやるなんてことにはならないけど、それを重視してたらうちの村はなにもできないから。よくPRイベントなんかやっても議員さんのなかでそんなのやって何になるのっていうね、札幌とか東京とかいろんなところでPRもやるけど、それで何人か来ました?ってさ。それひとつひとつカウントなんかできないし。ただ自分が思ってるのは、そういうことは恒常的にやっていかないと。1年か2年やっただけでほとんど来ないからやめ!ったら全然効果がないし。そういうものは常に継続してやらなきゃだめだよね。まず知ってもらって、そこから来てもらって、そうして来たら、あれ?なんかオレンジ色で、小さいけどもコンパクトで、ちょっといい感じ?みたいになると思うしね。やっぱり来てもらわないことにはね。だからいつもどこいっても言ってるのは、ひとりでいいから、別に5人も10人もいきなり来てくれなんて言ったってそれは難しいから、1年にひとりでもふたりでもいいから西興部村に住んでいただけるような人を見つけたいね。そのためには何かイベントがあったら来てもらうとか、いろんなツールでやらないと、だからみんなでPRしないとそうはなっていかないよね。」

かめ「手前味噌ですが、今回のイベントのミュージシャンたちはだいぶ西興部に対して前のめりみたいですよ(笑)」

村長「ぜひそれに村のひとたちもそこに参画できるように、参画させられるようにしてあげたいよね。高齢の方たちもね、たとえば老人クラブとかに声かけてさ、ちょっとバス出すからって言って、ミュージシャン?えー?みたいになってもさ、やっぱり民謡の方がいいよねとか演歌がいいよねってなってもさ、巻き込めるようにしたいよね。」

かめ「そのための仕掛けはあります!今回は、盆じゃないけど、盆踊りやります!で、最後の盆踊りは無料で誰でも入れるようにしようと思っていて、そうすると村人たちも、ミュージシャンに興味がなかったとしても、楽しめるように考えてます。」

村長「それをみんなでやってほしいね。みんなっていうのは、スコップ三味線やってるひとも、いろんなジャンルのひとが、せっかくやるんだったら協力しあってやりたいよね。相当有名なひとを呼ぶんだったら放っておいても村外からひとが来るしチケット代だけで運営できるのかもしれないけど、そうでなかったら村のなかで協力しあわないとね。だからRYUTistと新潟で子どもたちが共演したなんていうのはよかったよね。やっぱりうちの村はコンセプトが「夢」だからさ。でっかいのもちっちゃいのも夢はいろいろだけどさ、叶えてあげたいよね。」

……

まだまだ続く村長のインタビューは当日配布する冊子にて!

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