出会いうるものたちのさけび

中国思想史研究者 小島毅

  
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中国思想史研究者 小島毅

かめ「ざっくりしすぎていて難しいかと思いますが、西狩獲麟についてご解説いただけますか?」

小島「西狩獲麟というのは『春秋』という儒教の古典のなかに出てくる有名な言葉で、『春秋』の最後は「西に狩りして麒麟をつかまえた」=「西狩獲麟」で終えられています。この文言で『春秋』が終わっていることが、昔からナゾトキを呼んできたわけです。どのような文脈にこれがあるかというと、『春秋』という本は春秋時代の編年記、まぁ年表のようなもので、春秋時代というのがそもそも『春秋』の年表の記述の対象になっているから春秋時代と呼ぶわけですけれど、その春秋時代は、秦の始皇帝が中国を統一するよりも何百年か前、まえの王朝だった周の王の権威が衰えて、中国各地で諸侯が自立しお互いに同盟を結んだり戦争をしたりという時代でした。儒教の創始者とされる孔子はその時代に生まれて、自分の晩年から遡って二四二年間の歴史を編纂した、それが『春秋』です。その最後の西狩獲麟という記事は、孔子が死ぬ二年前にあたる年にあり、孔子はそこまで書いて筆を擱いた=擱筆した、ということになっています。そうすると、じゃあなんで孔子は西狩獲麟という記事で『春秋』という年代記を終えることにしたのか、という疑問が出てくる。麟つまり麒麟というのは、聖なる動物で、めったに現れないものです。もちろん現在の科学からいえば空想の動物です。2020年のNHK大河ドラマで「麒麟がくる」というのがありましたが、あのテーマも、麒麟が現れるのは天下太平のときである、つまり戦国時代を終わらせて天下太平をもたらすのは誰なのか、というものでした。このように麒麟というのは、世の中がうまく治まってひとびとが豊かに暮らせるようになると現れる、とされていたんですね。いまジラフを麒麟と呼ぶのは、15世紀にアフリカから中国に連れていって、時の皇帝に「麒麟が来ました」と報告したことによっています。春秋時代、諸国が戦争をしてひとびとが苦しんでいる状況のなかで麒麟がつかまった、これは天があるメッセージを我々に発したのだと孔子は考えて、したがってそこで『春秋』を終えたのだ、というように言われているわけです。ただ、じゃあ、天が麒麟を地上にもたらしたその理由は何かというと、これにはいろんな説があって、孔子は報われないのだ、つまり地上では王になれないのだという説もあれば、天下太平の将来の明るい見通しがでてきたので天が麒麟を遣わしたんだという解釈もある、というように、とにかくいろんな解釈があるわけです。」

かめ「このフレーズをめぐって、古来さまざまな議論がなされてきたということですね。」

小島「そうですね。儒教のなかでは非常に重要な出来事として、シンボリックな意味合いを持たされてきた事件です。」

かめ「いろんな解釈があったとおっしゃいましたが、どこを議論のポイントにしていたのでしょうか?」

小島「おおきくいえば、麒麟がでてきたことは世も末だっていう悲観的な解釈と、麒麟がでてきたということは現状ではまだ戦争が続いているけれども、このあと天下太平のときが訪れるという予告であるっていう楽観的な解釈と、まぁその二通りあると思うんですね。はじめのうち優勢だったのは、楽観的なほうの解釈です。ただはじめのうちって言いましたけれど、それは孔子が死んですぐのころではなく、孔子が死んでから三百年以上経った前漢のなかごろからです。漢という王朝は、秦の統一のあとを受けてさらに強大な権力を持ち広い領域を治めた、いわば天下太平を実現した王朝なので、漢のときの西狩獲麟の解釈は、これは我が漢王朝がやがて現れるという予告なのだというものでした。それをしたのはいわば御用学者たちで、いまこうやって天下太平なのは、そのときに麒麟が現れたからで、それをもって孔子は『春秋』の記述を終えて将来のわれわれ漢王朝に託したのだ、というわけです。その根拠となる理屈が、いちおう、ありますが……、関心ありますか?(笑)」

かめ「もちろんあります(笑)」

小島「では……。麒麟は、方角でいうと東に属する生き物とされます。東は十二支では卯にあたります。西に狩りしているが、西は五行思想で金の方角、狩りですから武器(刀)を使っている。そうすると、「卯+金+刀」で「劉」という字になります。つまり劉氏の天下(漢王朝の高祖は劉邦ですから)がやってくることをすでに何百年かまえに天がこの事件によって予言していたんだ、っていうわけです。まぁ今で言えば御用学者の憲法解釈なんですけど、あぁなるほどというふうに、そのときの政権はこれを採用したんですね。これが楽観的なほう。で、いっぽうの悲観的な解釈のほうは、『春秋』という年代記を読むとだんだん戦争がひどくなってくる、しかも最初のうちは黄河流域の諸侯たちのあいだの小規模な戦争だったのが、しだいに地域が広がって長江流域の楚であるとか、さらに南の呉や越という国まで登場してきます。もともと楚・呉・越は南に暮らす野蛮人だと思われていました。儒教の用語で、夷狄(いてき)ですね。その夷狄が中国に侵入してきて、中国の諸侯を自国の属国にしたり戦争で打ち負かしたりしている、つまり乱世がだんだんひどくなっていると。異民族の軍事的脅威によって、中国が危うい状況になっていくのが、春秋時代の歴史であり、だから麒麟が現れたのはある種の逆説的な皮肉であって、そうすると孔子という聖人が現れても天下太平はもたらされないことを意味する、っていうことになります。こういう説が有力になるのは、漢のようにいわゆる中華王朝が強い時期ではなく、漢民族以外の、まぁ多くの場合は北方の遊牧民ですけど、そうした異民族の軍事的な圧力を受けて、いわゆる中国が弱くなっているときに、その自分たちの状況を春秋時代の歴史になぞらえるカタチで解釈されるっていうことですね。」

かめ「時代の状況に合わせて解釈が変わるんですね。そしてそれは単なる想像力で解釈するのではなくて、そのとき持ち合わせているさまざま分野の知識の体系を応用することによってなされていて、そして時代が下るとその知識の体系がまた変容していくことでそれにともなって古典の解釈も変わるという……。そういう、相互に参照しあうような学問の体系があったんですね。そのなかでも西狩獲麟は国家の運営にとって非常に重要なフレーズだったわけですよね。そこの解釈が変わると世界観が揺らいでしまうというか。」

小島「つまり、前提として西狩獲麟という「事実」があり、孔子がそのことを書き記したということへの「信仰」があったんですね。現在の科学からしてみれば、そもそも麒麟などという動物は実在しないし、『春秋』と孔子の関係じたいも疑問視されているんですが、いま私が紹介してきたようなひとたち、いわゆる儒教の学者たちはみんなそのことを信じて、それを前提に論じているっていうことですね。だから、私たちからみると、まぁ屁理屈にみえるような理論を立てて説明しきってしまう。私たちがいま常識だと思っていることも、いろんな前提のうえで成り立っていますよね。学校で教わる科学的知識とされるものも所詮はそうであって、何百年かまえのひとが迷信を信じてたって私たちがいうのと同じように、何百年かあとのひとたちに、『二十一世紀のひとたちはあんなことを前提にしてたから、こんな考え方を持ってたんだ』っていう批判の対象にもなりうるということを自覚する必要がありますね。そう自覚させるのが人文学の役割だと思っています(笑)」

かめ「現代においてはこのフレーズは何か意味を持つでしょうか?いまの中国という国家にとって。」

小島「西狩獲麟という文言じたいが共産党首脳によって使われたという記憶は私にはありません。ただ、さっき言った、漢のときにわれわれが天下太平をつくってますよねっていうその言説と同じものを、いまの中国の御用学者たちは使っています。それは「大一統」=「一統をとうとぶ」という言葉です。当時知られていた世界の秩序は、漢が中心になってつくっていた。いまの中華人民共和国はまさに地球規模で秩序をつくっていこうということであり、これはヨーロッパにおいて十七世紀以降に確立してきた主権国家体制にたいするおおきな挑戦です。もちろん、それは中国が経済的に成長して共産党政権がそれを対外的に自信をもって臨むことができるようになったからこそですが、それを正当化し、こんご中国がやろうとしていること、すなわちこれまでのヨーロッパや北米を中心につくられてきた世界秩序を揺るがして、それにかわるものをつくろうというときに、二千年前の思想的遺産である「大一統」という世界観を持ち出してきている、というのはありますね。」

かめ「ある時点からいまの共産党は実質的にはマルクス主義を捨ててしまっているということですよね。」

小島「建前上は看板を下してはいないけれど、いまの中国がとてもマルクスが言った「万国の労働者よ団結せよ」っていう旗のもとに動いているとは思えないですね。むしろ、ナショナリズム。しかもナショナリズムという西洋的な言い方ではなく、自分たちが世界に太平をもたらすんだっていうロジックで言おうとしている。一帯一路構想もそういうなかででてきたものですね。」

かめ「漢代に五行思想だったりいろんな考え方を動員して西狩獲麟を解釈しようとしたのと同じ手つきで、現代では西洋思想だったり科学的知識を用いて古典を解釈しようとしているように見えます。近代になって中国という国家が変わったという認識がおおかたの見方なのかもしれませんが、じつはやっていることはずっと同じなのかもしれないなとも思います。」

小島「あんまり文化本質主義的に、中国は昔からこうだった、フランスは昔からこうだった、とは言えないと思うんですよ。フランスが昔からずっといまのフランスだったとは誰も思っていないわけで、十八世紀の啓蒙思想の影響を受けて革命があったことによっておおきく変わりましたよね。中国についてもそういう変わり方はいくらもあったわけですが、ヨーロッパの何千年間かの考え方とかなり違うものは、東アジアには別にずっとあって、それについては文化のもともとの違いと言えるのかもしれないですね。逆にいえば、かつてマルキシズムのもとでいわれていたような、世界史の基本法則つまり世界中のどんなところでも同じ経済的な発展段階を歩むんだっていうのは、これはもうフィクションにすぎなかったってことが明らかになっていますよね。」

かめ「社会契約もフィクションではありますが……。」

小島「まぁそれが国際的にはメジャーですけどね。」

かめ「こんごも中国では古典が政治に用いられていきそうでしょうか?」

小島「二十世紀の百年間は、中国の長い歴史のなかでは、外来の思想体系が中核を占めた「異常な」時期だったかもしれません。二十世紀になって西洋的な近代国家の理念が入り、それで中華民国ができ、社会主義が入ってきて、中華人民共和国ができ、っていう百年間。しかし二十一世紀になって、むしろ先祖返りというか、「中華民族の偉大な復興」を彼らはいまスローガンにしているので、西洋近代的なものの考え方やシステムに対抗しようという意思をあからさまにしていますね。ただこれは政権担当者たちのレベルであって、それ以外のひとたちの考え方はまた別だし、ある程度の高等教育を受けた知識人たちはやはり西洋的な自由だとか人権という概念に馴染んでおり、それに憧れている面は強いとは思いますね。」

かめ「日本の政治家の方々も人権はないがしろにしている気がしますね。」

小島「人間、あるいは「ひと」っていうものをどう捉えるかに、さまざまな違いがあるんだろうと思います。それは何千年間かの歴史のなかでつくられてきたおおきな違いで、たとえばカント的な、あるいはルソー的な、ひとりひとりが独立した個人であるという考え方があるいっぽうで、そうではない別のあり方、別の人間観を頭ごなしに否定できるのか。つまり個人の自立を認めない考え方について、それを間違っているとして、われわれが真理と信じているものを押しつけられるのかというと、これはそうでもないんだろうなという気がします。だから何百年かのちの人たちから、こんどは『カントとかルソーとかいう変なひとたちの思想に何百年間か全人類が染まってた間違った時期があるよね』ってことになるのかもしれない。」

かめ「日本でもリベラルと保守の対立が仮想空間上では日々なされている気がしますが、なんだか個人と国家とをつなぐあいだの中間的な組織がすっぽりと抜け落ちている気がします。国の政治か、個人の政治信条か、というふうに、あいだの政治というものが見当たらないかもしれません。」

小島「ま、近代国家ってそういうもので、中間団体を潰すっていうのがフランス革命だったわけですよね。」

かめ「中国だとある意味で古典がブームになっているような気がしますね。」

小島「まぁね。自分たちの文化の誇りを取りもどそうっていうのを政権がバックアップしてるからね、大量の国家予算を投じて。」

かめ「けれど日本だといつまで経っても漢文への印象が悪いですね(笑)」

小島「戦後に漢文を古文と横並びにしてしまったという教育制度の改革は、おそらく、天皇を頂点とする明治国家の体制じたいが、中国における儒教的なシステムの日本における移植であり、忠君愛国なんて考えも儒教思想だから、それを潰すためには戦前の漢文教育でなされていた内容を極小化していくっていう教育政策があったからだろうし、まぁ現実社会において漢文だとか、あるいは広く和文も含む古典って資本主義での金儲けには役に立たないんで、どんどんそれが軽んじられていったっていうことだろうね。古典研究者に古典はこれからどうなるでしょうかとか、どう役に立つかとか、どういうふうに社会に発信できるでしょうかとかっていう質問はね、われわれが答えるとどうしても自分のとこの商売をよく見せるためのものになっちゃうんですよね。そうしないと文科省や民間財団から研究費をもらえないから……。世の中で役に立つと思われている学問をやっているひとは、なんでこれが役に立つかということを社会に向かってわざわざ言わないし、言わなくてもひとやお金が集まってきますよ。」

かめ「東京大学の学生たちに、違う分野のひとたちとディスカッションをする機会がどれだけあるのだろうかと気になっていて……。僕は西興部という場所に来て考え方がずいぶんと変わりましたが、そういうふうにして、環境をガラッと変えられるような経験が大学のなかであるといいなと思っています。」

小島「文化大革命での毛沢東の下放政策ってね、良く解釈すればまさにそういうことを強制的にやろうとしたんだと思うんですよ。都会のインテリ学生たちに農村の現場経験をさせるという。」

かめ「東京大学では地域との関わりというのにたいして、いまはどのような取組みがあるでしょうか。」

小島「文学部は地域や地方と積極的に関係を持とうとしていて、その事例を作ってきています。ひとつが北見市の常呂ですが、それは最初はあるひとりの教員の縁から始まって、もう五十年以上も続いているものです。これまで東大からの出張講演というようなカタチでつながっていたものをさらに発展させるために、さきごろ正式に北見市と協定を結びました。それからここ三、四年とくに文学部が力を入れているのは、熊野です。これも先代の研究科長の秋山聰さん(西洋美術史)のお友達がたまたま山伏で、そのひとに連れられて熊野に行ったら魅力にとりつかれて、それから東大の教員や学生を連れていったり、以前の濱田純一総長のときには体験学習プログラムに組み込まれて東大の公式行事になったりしました。そして2020年に文学部は熊野の新宮市と協定を結んでます。あともうひとつは、鳥取県米子市の淀江というところです。その字が示すとおり、日本海沿岸の伝統的な港なんですよね。西暦四、五世紀のころから、ひろい意味では出雲文化圏に属していて、考古学的にはまさしく宝庫といえるような場所です。ここも考古学の先生が発掘に関わっていたなどの理由によって縁ができたものです。文学部以外だと、個々人の学問的な関心によって、たとえば福島だったり、過疎地域だったりします。これらは偶然に選んだ「ケース」なんだけれど、でもそういうケースに東京にいる学生が触れる、あるいは日本に来て東京で学んでいる留学生が触れるということは、自分自身を改めて見つめなおすというのかな、自分のやっている学問と違う視点で自分を見る、知らなかったことに触れる、という点では非常に意味があると思っています。」

かめ「自分のなかでしっかりと持っているものがあると、それだけ見えてくるものも多いですよね。打算的でなく始まったものが続いているのがおもしろいですね。今回のイベントのブッキングもじつはそんな感じでやっていて……、たまたまのご縁がほとんどだったりします。お客さんを呼ぶためにミュージシャンを呼んでいるわけではなくて、西興部にいちど来てくれたことがあるとか、興味を持ってくれたとか、そういうひとたちをひとつの場所と時間に集めたらきっと楽しいだろうなという思いです。」

小島「シンポジウムのコーディネーターみたいですよね。シンポジウムってそうなんですよ。自分が選んだひとたちに並んでしゃべってもらったら、自分にとっても益があるし、おもしろい世界が開けるんじゃないかなっていうことだから。」

かめ「そのような縁のひとつとして、ぜひ小島先生にお話を伺いたかったので、今回はお受けいただきたいへんありがたかったです。」

小島「こちらこそどうもありがとうございました。」

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