ニシニカリシテについて
西狩獲麟
これは『春秋』というテクストの末尾に置かれたフレーズです。
『春秋』は一見するとただの年代記で、何年のいつに王さまが死んだとか軍事行動があったとか、そのような記述の束です。
しかし、かの孔子がこの年代記を編纂したと信じられたことから、このテクストは正典視されます。
そうすると、その記述群に孔子の意図が読み込まれていくわけです。
で、そのテクストの一番最後にこのフレーズ。
西の方面に狩りをしに行ったら、麒麟が捕まった。
とっても不穏です。
どうしてこれが不穏なのか気になる方は、中国学に足を踏み入れるまであとちょっと。
どうぞご自分で調べてみてください。
そこには東アジア思想の豊かな世界が待っています。
諸星大二郎の『孔子暗黒伝』でもOKです。
それで、私なりに何が不穏かを記しておくと、それは意味が確定しないことの不穏さです。
要は、意味が分からない。
だから、たったこれだけのフレーズなのに、これまで数えきれないほどの解釈が考えられてきました。
解釈へとひとびとを衝き動かしたモチベーションは、正しさのためです。
これは憲法の解釈問題と似たようなもんで、大きな国家を運営するときの思想的な拠りどころのひとつに『春秋』は位置づけられたため、その解釈が一定しないと政策がうまく立てられなかったわけです。
「正しい解釈」を求めた終わらない議論があったんですね。
その議論の顛末はさておき、私が好きなのは、そうした解釈の系、すなわち昔のひとたちの学問の営みの蓄積です。
みんながんばってたんだなぁと思う。
いろんな本を読んで、いろんな知見を得て、正しさを打ち建てようとしていたんでしょう。
そしてそういうがんばりを並べてみてみると、けっこうおもしろい。
このひとはあのひとの言ってることを真に受けてるのね~とか、そんな考え方しちゃうの~とか。
それぞれが響きあっていて、その響き方を確かめてみたくなる。
そんなおもしろさがあります。
正しさを求めてテクストを読み替えたり読み違えたりするうちに、新しい響きが生まれてしまう。
私はこうした、人間の、ものごとをややこしくしていく方の人間らしさに賭けたいと思っています。
西に狩りして私たちはいったいなにを獲るのか。
「ニシニカリシテ」というひとつの系を、みなさんなりに読み解いていただければと思います。